音楽プロデューサー鈴木健士氏 寄稿『Amika File』

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私、Amikaはシンガーソングライターとしてデビューしてから22年になります。
数年本格的に活動をしたのち、療養期間を経て結婚出産し、
長らくCM音楽を歌ったり作ったりしていましたが、
少しずつシンガーソングライターとしての音楽活動も再開し始めようとしていました。

そんな時、突然音楽プロデューサーである鈴木健士氏が亡くなってしまったとの知らせを受けたのです。

偲ぶ会に参列しても信じられなくて、
「今もこの会場の裏の飲み屋で飲んでいそうな気がします」と言ってしまったほどでした。
あれからもう6年になるでしょうか。

そういえばデビュー前、私が音楽制作会社『ミュータント』のスタジオを借りて作曲作業をしていた間に「事務所で記録を書いている」とおっしゃっていた鈴木氏。

後日手渡されて「まさか私の観察記録を書いていたとは」と驚いたのを覚えています。
当時はかなり困惑しましたし、この文章がデビュー時の資料としてTower Recordsなど関係各所で配られると聞いた時は目眩がしました。

正直に言うと、言葉が悪くて大変申し訳ないのですが
「オッサン、何てことしてくれんのよ?!」という気持ちだったのを覚えています。

『音楽プロデューサー』という職業の方ですし、偉い方だとも存じていました。
でも当時は「これはプライバシーの侵害では?これを読んだ人が私のことをどう思うか。。考えただけでお先真っ暗だ」と感じたのです。

実際に読んだ他のスタッフや会社の方々が私に対して「扱いづらいのかな」と警戒し始めた気配も感じましたし、しばらく「公開はやめてください」「これはプロモーションじゃないですよ」と訴えていた記憶があります。
そんな経緯から、私自身はこの鈴木氏の文章を、長い間まともに読めずにいました。

ですが先日、ファンの方が24年ぶりにこの『Amika File』の文章を送ってくださったのです。

他のファンの方々からも時期をほぼ同じくして、「Amika Fileってありましたよね。久しぶりに読みたいです」とメッセージをいただいて、「そんなに読みたくなるようなものだったかな」と思いつつ、「今は亡き鈴木氏が書いてくださった文章だから…」と久しぶりに読ませていただきました。

…すると残念なほど、嘘が少ないものでした。
20歳だった私は、鈴木さん側からはきっとそう見えたのでしょう。

コミュニケーションが極度に苦手で、人とすぐ連絡を絶ちたくなり、作品の形を変えさせず、頑固で、生き急いでいて、見ていて危なっかしく恐ろしかったことでしょう。
本当にご迷惑おかけしました。

私の側からするといろいろ思うことがあったのですが、そこまで鈴木氏に深く話していませんでしたし、なにぶん当時20歳前のコミュ障、精神的に不安定で、睡眠もろくに取らず、常にノイローゼ気味だったので。。
ですが今そう言っても仕方ありません。
20年以上の時を経て、反省しています。

当時は「こんなこと書かなくても」と思っていましたが、今となっては亡き鈴木氏が書いてくださった、私のデビューまでのプロフィールです。

今は亡き音楽プロデューサー鈴木氏とご遺族の皆様、制作会社ミュータントで出会えた皆様、当時のFive-DやFaith Music Entertainment、ポニーキャニオンや東芝EMIの皆様、当時から今に至るまでライブでも組んでくださっているたつのすけさん。
そして長らく私の楽曲を聴いて下さっている方々や、新しく出会ってくださった多くの方々に多大な感謝を述べてこのページを終わらせていただきます。

Amika

→Amika File 1 ファーストシングル
『ふたつのこころ』ができるまで

デビューするまでの長い旅が描かれた文章です。

→Amika File 2 『愛情』
『自転車に乗って』ができるまで

Tower Recordsで配布されていたのは1まででしたが、
このあと、スピンオフのようにAmika File2も出ていました。
どこかで公表していたそうなのですが、私は知りませんでした。
鈴木さん、こんなことまで書いていたのかと。。
それでも記録してくださっていたこと、今ではなつかしくありがたいです。
もしよろしかったら読んでみてください。

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